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英国無料IVF治療体験始末記。其の二

これはきっと日本でも同じことだろうと思うが、不妊治療だのIVFだのというと、何かこう妙に劇的なイメージがつきまとうものであり、そういったテーマを扱った英国のドキュメンタリーやドラマなんかを見ていても、治療中に精神衰弱状態になってボロボロになる妻。とか、病院の待合室でひしと抱き合って号泣する夫婦。とか、何かと濃厚なシーンが出てくることが多いわけだが、当然ながら現実の世界にそのような熱いドラマが潜んでいるわけがなく、万事は淡々と進んで行くのである。

1月初旬に不妊治療の専門医に会った時も、なんかこう、いかにもNHSらしいというか、リスト化されたお決まりの質問(週に何回性交渉を行っていますか。生理の周期は何日ですか。などといった一般的なもの)に淡々と答えさせられ、わたしはその場でクラミジア検査(話は逸脱するが、最近英国で行われた調査で、ナイトクラブで遊んでいた男女の5人に1人はクラミジアにかかっていたという結果が出ている。英国で奔放に楽しんでおられる若い衆および若くない衆も、ぜひ注意していただきたい)を受けさせられ、「日を改めてパートナーの男性は精液検査を、あなたはホルモンのバランスを見るための血液検査を、それぞれ受けてくださいね」と指示されて検査に必要な容器と書類を渡されただけだった。不妊治療の最初の検診に行うべきことが全国的にスタンダード化されており、医師はそれを踏襲しているのみ。というのが見え見えである。

が、ひとつだけ覚えているのは、
「あなたのGPから、ラブリイな手紙を受け取りました」
という専門医の言葉だった。
GPから専門医へのラブリイな紹介状。というのは、いったいどのような文面のことをいうのであろうか。まさかサンリオのキティちゃんがあしらわれた便箋に書かれていたというわけでもなかろうし、かといってその手紙が形式的な通常の紹介状だったのならば、わざわざ“ラブリイ”の形容詞を用いて話題にする必要もなかろう。負けず嫌いのドクター・Sがどのような趣向を凝らして専門医のハートに訴えかけたのかはいまだミステリーだが、彼女の書いた手紙が通り一遍の紹介状と違っていたことは明らかだった。

英国で、医師や弁護士、会計士などの、所謂“プロフェッショナル”な仕事に従事している人々について語るとき、パートタイムで働いている人々よりはフルタイムで仕事に専心している人々のほうが信用がおけるというようなことを言う人が多い。が、わたしはその逆ではないかと思っている。

そもそも、フルタイムで朝から晩までひとつの仕事に従事している人は、毎日多くの顧客(または患者)に会う。特にNHSの診療所のGPなどというと、「一人あたりの患者に割ける時間は10分。そのうち、患者に会って話す時間が7分で、診察の内容、処方した薬品の名などをコンピューターに入力するのに3分」と、以前わたしのGPをしていた爺さんがぼやいていたほど、次から次へと患者を診るわけである。それはつるつる目の前を流れるくるくる寿司の様にも似ており、一日中カウンターに腰掛けてそれらを食べ続けていれば、しまいにはどれがサーモンでどれがトロだろうがそんなことはもうどうでもよくなってしまうのであり、だらだら惰性で箸をつけているといった状況になってしまったとしても責められたものではない。

が、パートタイムの人々は違う。一週間に数日しか働かないのであれば担当している顧客(または患者)の数も少なくなるし、そうした形態を選択して働いている人はたいてい子持ちの女性である。働いていない日は自宅にいて家事等の比較的刺激の少ない仕事をこなしていることが多いので、「あ、そういえば、あの時来た人」と何かの折に特定の患者を思い出すこともあるだろうし、「ちょっと専門医の心を動かすようなヒューマン且つプロとして抑えるべきツボは全部抑えてますよ、みたいな、ブリリアントな紹介状を書いてこましたろかしらん」といった仕事に対する欲も出てくる。

実際、わたしなどはGPがパートタイムの女医になってから、自宅にGPから電話がかかってくるようになってきて吃驚した。たとえば、以前は血液検査などを受けたとしても、二週間後に診療所に結果が届いているので、結果が知りたければ自分で受付の女性に電話して訊いてくださいね。と言われるのが常だったが、パートタイムの女医先生は、たとえそれが自分の勤務日でない曜日でも、結果がわかれば自ら電話をかけてきて教えてくれる。

どうしてそこまで彼女が熱心に患者の面倒をみるのかというと、“毎日働くことができない”という負い目があるからだろう。GPとて接客業だ。パートだからこそフルタイムの人間以上に働いて突っ込まれる隙のないようにしておかなければ、「やっぱりパートの女性はあてにならない」などとすぐ言われてしまう。

そういうわけで、やたらと仕事熱心なパートタイム・ドクターのおかげで、NHSとしては快調過ぎるほどのスピードで不妊治療の専門医に会うことができたわけだが(それでもここまでで3ヶ月はかかっているが)、連合いの精液検査、わたしの血液ホルモン検査を済ませ、すべてノーマルの結果が出たところですでに暦は3月になっていた。

というのも、わたしの血液検査というのが二種類あり、生理の初日から3日目までに行わねばならない検査と、生理の初日から数えて21日目までに行わねばならない検査を受けたわけだが、どちらも期間限定つきのテストだったため、一ヶ月に一度ずつしか受ける機会はない。その上、朝の五時まで飲んだ後で仮眠を取って病院に出かけ、看護士にジョークのひとつも飛ばされても、息を吐いたら臭いので笑えないような状態で採血してもらっていたわたしである。「検査の前は酒を飲むな、なんて誰にも言われなかったもん」とうそぶきながら、一度目はそうした状態で検査を受けたのだったが、どうも通常ではあまり考えられない検査結果が認められたらしく、受け直しさせられることになったのだった。「酒を飲むなと注意されなかったのは、妊娠しようと思っている女が毎日朝まで飲んでるとは誰も思わないからじゃないか、普通。飲まないで検査したら、一発で正常な結果が出るんじゃないの」と連合いが言うのでその言葉に従ってみると、二度目はあっさりオッケーが出た。

今でもアルコールと血液中のホルモンの関係については不明だが、そんなふざけた姿勢で不妊治療を受けようとしていたことが知れると、NHS関係者にも、NHS無料不妊治療の順番待ちをしておられる英国民の方々にも大変申し訳ないので、このことだけは誰にも尋ねることはしていない。

というわけでようやく無事に血液検査も終わったところで不妊治療科の看護婦から手紙が来た。看護婦。といっても、彼女は患者に会って治療の概要などを説明するコンサルタントとしての資格も持っている人で、医師と看護婦の中間に位置するような身分である。NHSの経費節減を図る英国政府は、看護婦にこのような資格を取らせ、医師の代わりに使える局面では極力使ってしまおう。といった医療システム全体のリストラクチュアリングを進めている。

こうしたキャリア系のナースたちは、NHSの病院でも私服で働いているので一目でわかり、ブライトンあたりの病院に行くと、紫の別珍のベルボトムに銀ラメ・ストライプの入った白シャツを着たグラム・ロック系男性ナースや、60年代風のミニ・ワンピに白ブーツをはいたキューティー・ハニーな女性ナースなども見られ、大変にファンキーなのでつい病院にいるのを忘れてしまうことがある。

かかる方策を施して政府が医師の代わりにナースを使い始めたり、安い賃金ですむからなどという付け焼刃的政策によって外国人医師を積極的に輸入したりしたため、現在英国では医師の資格を取ったばかりの若人たちが就職難に苦しんでおり、こうした若い医学生たちの21%が“自殺を考えたことがある”と答えていると、最近もセンセーショナルに報道されていたが、その一方では、“賃金は激安だし、汚れ仕事だし、長時間労働だし”と、報われない職業の中でもトップ3に入るほどの苦労を強いられてきたナースたちが、キャリア・アップの梯子を登れるようになって生き生きと病院で働いているのであり、誰かが生き生きすれば誰かが死にたいと思うようになる。といった、恒常不変の世の真実の縮図をNHSに見るような気がするのだが、その只中にいる人はそんな物事の見方はしない。自分に割り当てられた仕事をこなし、おいしいものを食べ、屁をこいたりセックスしたりしながら毎日生きていくだけである。

そうしたキャリア系生き生きナースの一人から手紙を受け取り、そこに書かれていた日時に病院に出向いて行くと、ボーホー・ヒッピー系みたいなファッションで、ちょっと太ったシエナ・ミラーといった風貌の私服看護婦がわたしを待っていた。検査の結果も一応出揃ったところで、今後の治療の説明をしたいらしい。

「あなたの検査の結果も、あなたのパートナーの検査の結果も、正常でした。あなたの方にはもうひとつだけやってもらわなければいけない検査はありますが、今後の治療のことについてお話したいと思います」
と、キャリア系ナースのジョーは言った。
NHSの不妊治療関係者は、常に“夫”という表現ではなく、“パートナー”という表現を使う。これは、手紙から診療の際の会話まで、一貫してそうである。英国では、日本語でいうところの内縁関係で不妊治療を受ける人も大勢おり、また結婚していても夫婦別姓の人がけっこういるため、誰が結婚していて誰がしていないのかよくわからないので統一して“パートナー”と呼ぼう、と決めてあるのだろう。

「これからあなたには、卵管造影検査を受けてもらわなければなりません。これはつまり、子宮内に造影剤を注入してレントゲン写真をとり、子宮内膜や卵管を写し、卵管通過性をみる検査です。これに関しては、後日放射線課のほうからアポの手紙が届くようになっています」
「はあ」
「で、それで正常な結果が出れば、まずIUIという治療を行います。これはIntra- Uterine Insemination、つまり人工授精のことでして、精液を洗浄、選別した上で女性の子宮内に注入する治療であり、目的は受精能を持った精子が多く受精の場に到着するのを助けることにあります。人工授精を成功させるためには、排卵のタイミングにできるだけ正確に合わせることが重要になってきます。ですから卵胞刺激ホルモンを注射したりすることによって卵胞の発育を観察して☊☊☊☆☆☆$$$・・・・・」
「はあ」
「一回で成功する確率は5~10%で程度ですが、♀♀♀♂♂♂が❤❤❤して、 فففللل؁؁؁ففف」
「はあ」
と、わたしはまるで他人事のようにはあはあ言って話を聞いていたわけだが、そもそも不妊治療を受けたいという願望が薄弱であるからして、あれこれ治療内容を説明されたところで興味がないというか、真剣に不妊治療を受けておられる方にはまことに申し訳ない言い草だが、ちっとも面白くない。

だからジョーが説明の後に
「何か質問は?」
と訊いてきたときにも、わたしは阿呆のようにぽかんと口をあけて
「ありません。ははは」
などと意味もない笑いを漏らしていたのであり、この日本人、英語わかってるのかしら。それとも、単に頭が弱いのかしら。というような目つきでわたしを見おろしているジョーに、そう言えばひとつだけ疑問はあるなあ、と思い、尋ねてみることにした。

「でも、その卵管なんとか検査ってやつや、IUIっていう治療は、そんなにすぐ出来るんですか、NHSで?わたしあと3ヶ月足らずで40歳になるんですけど、そんなところで時間を取られていたら、IVF治療はできなくなっちゃいますね。NHSを使って無料でIVFできるのって、40歳未満なんでしょ?」
わたしが訊くと、ジョーは一瞬沈黙し、そして急に強張った顔つきになって言った。
「IVFが不妊治療のすべていうわけではありません。IUIでうまく行けば、何もIVFを行う必要はないんですから」

なんだか釈然としない気持ちはあったが、相手はNHSである。
そりゃそうだよな。そんなに簡単に、体外受精なんて高価なことを、無料でやらしてくれるわけがねえよな。まあ何だかよくわかんないけど、そのIUIとかってやつをやってもらって、それで駄目だったら、連合いも諦めがつくんじゃないの。それまでは前向きなスタンスを示しておこうっと、とりあえずfor the time beingは。

と考えながら病院の外に出ると、冷たく陰気に曇っていたはずの3月の英国の空が不気味に晴れ渡っており、気色が悪いな。どうも。と調子を崩されたものの、まあ、それでも晴れてるのは気分がいいから、ウォッカでも買って帰ろ、先月やった仕事のお金が入ったばっかりだし。5本まとめて。ついでにギネスも5箱配達してもらおっかな。赤ワイン1ダースと一緒に。るるるるる。

みたいないい加減な心の持ちようでわたしは帰路についたのであり、自分がナースのジョーに投げかけた質問がその後どのような果実を結んでしまうことになるのか、ということについては、この時点では知る由もなかった。

というか、はっきり言って知ったこっちゃなかったのである。とりあえず酒さえ飲めれば。
# by mikako0607jp | 2007-08-15 07:35 | 英国無料IVF治療体験記