女が野獣と化すとき。それはレイバー 完結編

いったんヤクが効き始めてからは、妙に時の流れが速く感じられた。
というか、実際にはここから出産までは実に3時間半もかかったのであり、お産じたいのスピードはガタ落ちしたのであって、アニーの野郎、赤子の身に危険がおよぶだのわたしの下半身が裂けるだのともっともな理由をつけていたが、結局はお産が長びくのが嫌だからEpidural使用に難色を示したのではなかろうか。と訝ってしまったのだったが、それでも時の流れがスピーディーに感じられたのは、ああ、こんな感じなら別にいつ出てきてもいいなあ。みたいなこころの余裕がこちら側に生まれたからであり、けっこう優雅にうつらうつらしたりして、大プッシュ・セッションの疲れを癒している間に時間が過ぎて行った。

とはいえ、Epiduralを使用したからといって全くの無痛状態になったわけではなく、骨盤を締め上げられるような陣痛はまだ感じていた。んが、それが以前のように耐え難いペインではなくなり、何よりもあの怒濤の如き“排出衝動”が無くなった。ヤクが効き過ぎて陣痛を感じなくなってしまうと、プッシュする時にいきむタイミングがわからなくなって困る。というのもヤク使用の欠点の一つのようだが、わたしの場合にはそういうことは全くなかったのである。

しかしながら、これでスムーズにお産が進んだわけではない。
午前三時を過ぎて今度こそ本当に子宮口が全開し、アニーの合図のもと再びプッシュを始めると、今度は別の問題が勃発した。出生を果たそうとしている赤子が、わたしが一度プッシュを終える度に、深く内部に引っ込んで行ってしまうらしいのである。
「何なのかしらねー。三週間も早く破水させて世に出て来たいらしい意志を見せておきながら、いよいよという段になると、引っ込んで行ってしまうわよ、この子は」
とアニーが愚痴るような優柔不断さだ。

なんとなく先が思いやられる性格のガキだなあ。
と思いつつ黙々とプッシュを続けていると、ついにアニーが詰め所から初老のミッドワイフを連れて来た。
「本気で頑張ってるみたいだから、出て来ないんだったらもうあれしかないでしょ」
と言い残してアニーの先輩らしきミッドワイフが出て行くと、今度は、前夜のうちに「今夜の宿直です」と挨拶に来ていた女性の産医師が入って来た。

「これ以上お産が長引くと危険なので、Ventouseを使用します」
と彼女は説明した。
Ventouse。とは、平たく言ってしまえばベイビーの頭に取り付ける吸引カップようなもので、これを赤子の頭に装着して引っ張り、一気に外に出そうというのである。日本では吸引出産と呼ばれているらしい。
ここまで来るとさすがに四十路の妊婦の衰弱は激しかったし、吸引オッケー。なんでもいいから早く出してくれという気分になっていた。それに、近所に住む少年Aの弟がVentouse出産だったと聞かされていたが、特に当該少年の頭部の形状に異常がある風でもなく、人一倍丈夫でやかましい児童に成長しているので、器具使用に対する偏見も皆無だったし。

そんなこんなで、最終的にはアニーの手ではなく、そこはかとなく中性的なユダヤ人女医の手によって無事に赤子が取り出された(というか吸い出された)。
「片手の拳をあげて出て来た」
赤子出生の瞬間を見た連合いは言っていた。
「なんかこう、トム・ロビンソン・バンドの“POWER IN THE DARKNESS”のジャケット。って感じだったよ」
と、後日友人らに語ると、
「2-4-6-8 BIRTH CANAL(産道)」
「ブライトンだし、ゲイ住民の多いエリアの病院だから、それもありかもね」
などと突っ込まれていたが、連合いが実際に出生の瞬間に漏らした言葉は、
「男だ・・・」
だった。

赤子の性別はすでに知っていたのだったが、確認して気落ちした感じが声の調子にありありとこもっていた。反抗的でぶち切れやすいくせして妙に鬱気質という、まるで自分みたいな男の子ができると面倒くさそうだから、年頃になるとフォクシーな友人とかを家に連れて来たりする女の子のほうがよほど楽しそうだと思っていたらしい。ばかたれである。

それでも連合いは気を取り直したらしく、医師とアニーから指導されるままに赤子の臍の緒を切ったりしていた。
それからアニーはまずわたしに赤子を抱かせた。
顔をまじまじ見てみると、そいつはわたしの腕の中で初めて目を開いた。
「これまでわたしが見た男の中で一番ハンサムだ」
と、つい声にしてしまい、わたしの局所の縫合作業を行っていた女医にビターな笑いを漏らされたが、こうした世迷言を言うほどホルモンに脳を冒されてしまっているからこそ、女は子供を産むのである。
そう。レイバー・ワールドへのトリップから現世に戻って来た女の頭は、くるくるパーになっているのであった。
そうでなければ、誰があんな不愉快きわまりない声で泣く、ミニチュア化した寝たきり老人のような生物に24時間煩わされながら生活することができるだろう。

「あなたも抱いてみなさいよ」
アニーがわたしの手から赤子を抱き上げ、連合いに渡した。
と、どういうわけか赤子はじっと連合いの顔を見つめながら、勢いよく初めての放尿を行ったのである。
「ひゃあー、何考えてるんだ。きっとこいつは一生俺に小便をかけ続けることになるぞ」
と、濡れたTシャツとジーンズを見下ろして連合いが言った。
わたしが強烈に赤子との一体感を感じた瞬間である。

そうこうしている間にもわたしの下半身から胎盤を出したり、赤子を検査したり、そこら辺をちゃっちゃっと片付けたりして忙しく立ち働いていたアニーが、「ティーとトーストを持ってきましょうか?」と訊いてきた。
おお。これが噂の産後のティーとトーストか。

NHSの病院で出産すると、産後にはティーとトーストが出てくるというのが全国的にスタンダード化されているらしく、「出産した後に、そんなバサバサしたもん食えるかよ」「貧乏くさくて最低」と、NHS出産経験のある日本人女性には大不評のようだが、出産後にいきなり鯛の御頭つきってのもごっついし、さっきまでヴァギナ丸出しで奮闘していた女が急に小指を立ててシャンパンってのもどうかと思うし、わたしにはティーとトーストぐらいでちょうどいいように思われ、実際、この時も大変おいしく感じられた。ま、平素からろくなものを食べていないので、庶民感覚の食い物が一番落ち着くという理由もあるんだろうが。

そんなわけで二人分出て来たティーとトーストを連合いと一緒にいただきながら外を見ると、いつの間にか夜はすっかり開け、早朝の透明な光が燦々と窓から降り注いできている。
「ものすごく明るい朝だね」
「暑い一日になりそうだよなー。ちょっと俺、カメラの電池買って来るからよ。肝心なときに電池が切れちゃって、使い物になりゃしねえ」
か何か言い残し、食うだけ食ったら連合いはさっさと外に出て行った。

世の中は漸く午前5時になったばかりだったが、マリーナのほうに行けば24時間営業のスーパーが開いている。たぶん電池を買ったついでに散歩でもしてくるつもりなんだろう。いいなあ。と思いつつティーをすすっていると、ひとしきり後片付けや書類書きを終えたらしいアニーが、
「ティーを飲んだら、横になって少し休むといいわ。この後は、産後の入院病棟担当のミッドワイフが来て世話をしてくれるから。わたしはこれで帰ります」
と言って右手を差し出す。
「おめでとう」
「いろいろ、ありがとうございました」
「あれ、ダンナさんは?」
「マリーナのASDAに、カメラの電池を買いに行きました。いい天気だし、たぶん海辺をほっつき歩いて来るつもりなんでしょう」
「ああ、それはいいわね。海もあんなに穏やかだし。ビューティフルな朝だわ」
アニーにそう言われて窓の外を見てみれば、朝日をいっぱいに浴びた海が、その光を反射させてきらきら悠然と輝いている。

あの海。
あれは、あの海だった。

わたしはまた「さらば青春の光」のことを思い出していた。
初めて渡英した日の前夜、いざ一人で乗り込んで行くとなるとなんか怖気づいて、景気づけに観たのがあの映画のビデオだったのだが、まさかこういう状態であの海を眺めることになろうとは、お釈迦さまでも知らぬ仏のお富さんだったよなあ。

と考えながらじっと海を見ていると、
「あなた、“QUADROPHENIA”っていう映画にブライトン・ビーチが出てくるの、知ってる?」
などと唐突にアニーが言う。
「へっ?知ってるも何も、今その映画のことを考えていたんですよ」
「日本でも、けっこう有名なんでしょ」
「ええ。一応、モッズとか好きな人いますし」
「あなたも、見たことある?」
「もちろん。うちにDVDもあるし」
と答えると、アニーが、ふふふ、と急に小娘に戻ったような可愛らしい顔で微笑んだ。
「私ね、あの映画にエキストラで出てるのよ」

ぼさっとアニーの顔を見ていると、産婆グッズの入ったリュックを肩にからげ、「ALL THE BEST!」と片手を挙げながら彼女は分娩室から出て行った。

人生というやつは、妙なところでオチがつくからおもしろい。
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# by mikako0607jp | 2007-08-14 07:35 | 女が野獣と化すとき。