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女が野獣と化すとき。それはレイバー 完結編

いったんヤクが効き始めてからは、妙に時の流れが速く感じられた。
というか、実際にはここから出産までは実に3時間半もかかったのであり、お産じたいのスピードはガタ落ちしたのであって、アニーの野郎、赤子の身に危険がおよぶだのわたしの下半身が裂けるだのともっともな理由をつけていたが、結局はお産が長びくのが嫌だからEpidural使用に難色を示したのではなかろうか。と訝ってしまったのだったが、それでも時の流れがスピーディーに感じられたのは、ああ、こんな感じなら別にいつ出てきてもいいなあ。みたいなこころの余裕がこちら側に生まれたからであり、けっこう優雅にうつらうつらしたりして、大プッシュ・セッションの疲れを癒している間に時間が過ぎて行った。

とはいえ、Epiduralを使用したからといって全くの無痛状態になったわけではなく、骨盤を締め上げられるような陣痛はまだ感じていた。んが、それが以前のように耐え難いペインではなくなり、何よりもあの怒濤の如き“排出衝動”が無くなった。ヤクが効き過ぎて陣痛を感じなくなってしまうと、プッシュする時にいきむタイミングがわからなくなって困る。というのもヤク使用の欠点の一つのようだが、わたしの場合にはそういうことは全くなかったのである。

しかしながら、これでスムーズにお産が進んだわけではない。
午前三時を過ぎて今度こそ本当に子宮口が全開し、アニーの合図のもと再びプッシュを始めると、今度は別の問題が勃発した。出生を果たそうとしている赤子が、わたしが一度プッシュを終える度に、深く内部に引っ込んで行ってしまうらしいのである。
「何なのかしらねー。三週間も早く破水させて世に出て来たいらしい意志を見せておきながら、いよいよという段になると、引っ込んで行ってしまうわよ、この子は」
とアニーが愚痴るような優柔不断さだ。

なんとなく先が思いやられる性格のガキだなあ。
と思いつつ黙々とプッシュを続けていると、ついにアニーが詰め所から初老のミッドワイフを連れて来た。
「本気で頑張ってるみたいだから、出て来ないんだったらもうあれしかないでしょ」
と言い残してアニーの先輩らしきミッドワイフが出て行くと、今度は、前夜のうちに「今夜の宿直です」と挨拶に来ていた女性の産医師が入って来た。

「これ以上お産が長引くと危険なので、Ventouseを使用します」
と彼女は説明した。
Ventouse。とは、平たく言ってしまえばベイビーの頭に取り付ける吸引カップようなもので、これを赤子の頭に装着して引っ張り、一気に外に出そうというのである。日本では吸引出産と呼ばれているらしい。
ここまで来るとさすがに四十路の妊婦の衰弱は激しかったし、吸引オッケー。なんでもいいから早く出してくれという気分になっていた。それに、近所に住む少年Aの弟がVentouse出産だったと聞かされていたが、特に当該少年の頭部の形状に異常がある風でもなく、人一倍丈夫でやかましい児童に成長しているので、器具使用に対する偏見も皆無だったし。

そんなこんなで、最終的にはアニーの手ではなく、そこはかとなく中性的なユダヤ人女医の手によって無事に赤子が取り出された(というか吸い出された)。
「片手の拳をあげて出て来た」
赤子出生の瞬間を見た連合いは言っていた。
「なんかこう、トム・ロビンソン・バンドの“POWER IN THE DARKNESS”のジャケット。って感じだったよ」
と、後日友人らに語ると、
「2-4-6-8 BIRTH CANAL(産道)」
「ブライトンだし、ゲイ住民の多いエリアの病院だから、それもありかもね」
などと突っ込まれていたが、連合いが実際に出生の瞬間に漏らした言葉は、
「男だ・・・」
だった。

赤子の性別はすでに知っていたのだったが、確認して気落ちした感じが声の調子にありありとこもっていた。反抗的でぶち切れやすいくせして妙に鬱気質という、まるで自分みたいな男の子ができると面倒くさそうだから、年頃になるとフォクシーな友人とかを家に連れて来たりする女の子のほうがよほど楽しそうだと思っていたらしい。ばかたれである。

それでも連合いは気を取り直したらしく、医師とアニーから指導されるままに赤子の臍の緒を切ったりしていた。
それからアニーはまずわたしに赤子を抱かせた。
顔をまじまじ見てみると、そいつはわたしの腕の中で初めて目を開いた。
「これまでわたしが見た男の中で一番ハンサムだ」
と、つい声にしてしまい、わたしの局所の縫合作業を行っていた女医にビターな笑いを漏らされたが、こうした世迷言を言うほどホルモンに脳を冒されてしまっているからこそ、女は子供を産むのである。
そう。レイバー・ワールドへのトリップから現世に戻って来た女の頭は、くるくるパーになっているのであった。
そうでなければ、誰があんな不愉快きわまりない声で泣く、ミニチュア化した寝たきり老人のような生物に24時間煩わされながら生活することができるだろう。

「あなたも抱いてみなさいよ」
アニーがわたしの手から赤子を抱き上げ、連合いに渡した。
と、どういうわけか赤子はじっと連合いの顔を見つめながら、勢いよく初めての放尿を行ったのである。
「ひゃあー、何考えてるんだ。きっとこいつは一生俺に小便をかけ続けることになるぞ」
と、濡れたTシャツとジーンズを見下ろして連合いが言った。
わたしが強烈に赤子との一体感を感じた瞬間である。

そうこうしている間にもわたしの下半身から胎盤を出したり、赤子を検査したり、そこら辺をちゃっちゃっと片付けたりして忙しく立ち働いていたアニーが、「ティーとトーストを持ってきましょうか?」と訊いてきた。
おお。これが噂の産後のティーとトーストか。

NHSの病院で出産すると、産後にはティーとトーストが出てくるというのが全国的にスタンダード化されているらしく、「出産した後に、そんなバサバサしたもん食えるかよ」「貧乏くさくて最低」と、NHS出産経験のある日本人女性には大不評のようだが、出産後にいきなり鯛の御頭つきってのもごっついし、さっきまでヴァギナ丸出しで奮闘していた女が急に小指を立ててシャンパンってのもどうかと思うし、わたしにはティーとトーストぐらいでちょうどいいように思われ、実際、この時も大変おいしく感じられた。ま、平素からろくなものを食べていないので、庶民感覚の食い物が一番落ち着くという理由もあるんだろうが。

そんなわけで二人分出て来たティーとトーストを連合いと一緒にいただきながら外を見ると、いつの間にか夜はすっかり開け、早朝の透明な光が燦々と窓から降り注いできている。
「ものすごく明るい朝だね」
「暑い一日になりそうだよなー。ちょっと俺、カメラの電池買って来るからよ。肝心なときに電池が切れちゃって、使い物になりゃしねえ」
か何か言い残し、食うだけ食ったら連合いはさっさと外に出て行った。

世の中は漸く午前5時になったばかりだったが、マリーナのほうに行けば24時間営業のスーパーが開いている。たぶん電池を買ったついでに散歩でもしてくるつもりなんだろう。いいなあ。と思いつつティーをすすっていると、ひとしきり後片付けや書類書きを終えたらしいアニーが、
「ティーを飲んだら、横になって少し休むといいわ。この後は、産後の入院病棟担当のミッドワイフが来て世話をしてくれるから。わたしはこれで帰ります」
と言って右手を差し出す。
「おめでとう」
「いろいろ、ありがとうございました」
「あれ、ダンナさんは?」
「マリーナのASDAに、カメラの電池を買いに行きました。いい天気だし、たぶん海辺をほっつき歩いて来るつもりなんでしょう」
「ああ、それはいいわね。海もあんなに穏やかだし。ビューティフルな朝だわ」
アニーにそう言われて窓の外を見てみれば、朝日をいっぱいに浴びた海が、その光を反射させてきらきら悠然と輝いている。

あの海。
あれは、あの海だった。

わたしはまた「さらば青春の光」のことを思い出していた。
初めて渡英した日の前夜、いざ一人で乗り込んで行くとなるとなんか怖気づいて、景気づけに観たのがあの映画のビデオだったのだが、まさかこういう状態であの海を眺めることになろうとは、お釈迦さまでも知らぬ仏のお富さんだったよなあ。

と考えながらじっと海を見ていると、
「あなた、“QUADROPHENIA”っていう映画にブライトン・ビーチが出てくるの、知ってる?」
などと唐突にアニーが言う。
「へっ?知ってるも何も、今その映画のことを考えていたんですよ」
「日本でも、けっこう有名なんでしょ」
「ええ。一応、モッズとか好きな人いますし」
「あなたも、見たことある?」
「もちろん。うちにDVDもあるし」
と答えると、アニーが、ふふふ、と急に小娘に戻ったような可愛らしい顔で微笑んだ。
「私ね、あの映画にエキストラで出てるのよ」

ぼさっとアニーの顔を見ていると、産婆グッズの入ったリュックを肩にからげ、「ALL THE BEST!」と片手を挙げながら彼女は分娩室から出て行った。

人生というやつは、妙なところでオチがつくからおもしろい。
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by mikako0607jp | 2007-08-14 07:35 | 女が野獣と化すとき。

女が野獣と化すとき。それはレイバー②

出産時の鎮痛処置あるいはメソッドとして、最も一般的であり、いわゆる自然派の妊婦でも比較的抵抗なく使用する気になるものとして、笑気ガス、または俗的に英国で呼び称されるところの“ガス&エアー”というやつがある。
これは一見するとプロパンガスのボンベみたいなやつに吸引マスクがついたものであり、よく英国で病院ドラマなんかを見ていると産気づいた妊婦が酸素吸入器のような形態のものを顔につけ、苦しそうに吸っているシーンが出てくるが、あれは何も呼吸困難に陥っているわけではなく、笑気ガスを吸って陣痛の痛みを緩和しているのである。

わたしはバース・プランを準備することはしなかったが、“明確過ぎるほどに意思を伝えておかなければ何もしてもらえない”というこの国の鉄則は出産という一大イヴェントに際しても何ら変わることはないはずで、前もって言っておかないと本当に日本式有痛分娩でひいひい言わされるのは目に見えているので、
「“ガス&エアー”を使いたいんですが」
とアニーに伝え、笑気ガスのボンベを確保して部屋に持ってきてもらった。

笑気ガスの効用については、よく「酒やマリファナで意識がふわつくような感じ」とか「痛みのエッジを和らげるだけで、痛みそのものは消えない」とか言われるが、わたしの場合はガスを吸って痛みが薄らぐどころか、意識もがんがんに冴える一方だった。
「だってこいつ、毎晩ワイン一本あけて、その勢いで仕事してたような女ですよ。禁酒したからといって、たったの9ヶ月で何十年もの間に蓄積した体の毒が抜けるわけがないし、効くわけないですよー、笑気ガスぐらいじゃ」
と連合いは涼しい顔をしてアニーに言っていたが、彼女が部屋の外に出た行った途端、
「アラブの水パイプみたいじゃん」
か何か言いながら、自分が笑気ガスを吸ってぼうっとなったりしていた。

ガスが効かないとなると次は何なのか。という話になると、一般的には薬物である。自然派の妊婦は、笑気ガスや、TENSマシーンと呼ばれる背中に電流を流して痛みを緩和する機械(見た目的には単なるマッサージ機。それも通販専門系の)ぐらいまでは許せるが、ヤクの使用は一切許せないといった主張を持っていることが多いが、わたしは別に自然だろうが不自然だろうがそんなこたあどうでもいいのであり、要するに痛くなければそれでいい。が、そうは云っても、薬物がヤクである限り、赤子への影響の有無ということも考えねばならぬ。

UKの出産で一般的に使用されている鎮痛用のヤクには、PethidineとEpiduralがあり、前者は阿片モルヒネ系麻酔薬で、ミッドワイフが妊婦の臀部や腿に注射を打つだけで施すことができるため、わりと手軽に使用できる。一方、後者は阿片系と局所麻酔を組み合わせたようなもので、麻酔専門医が妊婦の脊柱にチューブを使って挿入しなければならず、点滴のような様態の大がかりなセッティングが必要になる点が不便だが、最も強力な効果が期待できる。

これらの鎮痛メソッド、および薬物については、産婦の定期健診の際、ミッドワイフがいろいろ説明してくれるし、NHSのマタニティ教室でも、きちんと表化された比較分析プリントを配布している。そのプリントによれば、Pethidineのほうは注射ですむので手軽だが、胎盤を越えて胎児に影響がおよんでしまう場合があり、生まれた時に赤ん坊が眠そうだったり、誕生後1-2日ほど乳児の頭が阿片でぼうっとしていてうまく乳に食いつけない、といった影響が出ることもあるらしく、さすがに誕生時からラリッてるベイビーってのも前途が懸念されるので、最近ではこの鎮痛メソッドを希望する人は殆どいないらしい。一方、Epiduralのほうは、赤ん坊への影響に関しては、シンプルにただ“Not known”と記されている。

で、ここが妊婦らの意見の別れる原因にもなっており、“Not known”ということは報告されていないだけで実は影響の出たケースもあったのかもしれないし、現段階ではこれといった影響がわかっていないのかもしれないが、将来的には大変な影響のあることが明らかにされるかもしれない、と心配する人々も出てくる。

自然派の人々がヤクを拒否する理由はこの辺にあるのであろうし、その一方でとにかく“痛いのはイヤ”という刹那的な人々は「ぐちゃぐちゃ恐ろしがってないで使ったらいいじゃん。原始人じゃあるまいし、何も好きこのんで痛みに耐えなくたって」といったプラクティカルなアプローチを取ることになる。

で、わたしはどうなのかといえば、酒ばっかりかっくらってその勢いで生きてきたような女が、いきなり “わたし〇〇派”みたいなしち面倒くさい主張を唱えだすわけがない。痛い。とか、腹が減った。とか、気色が悪い。とかいう不快な要素を取り払って生きていければ、わたしにとっては人生それでオッケーなのである。
「Epiduralが使いたいんですが」
いよいよ鋭化してくる陣痛に相変わらず腰をくりくり回しながらわたしが切り出すと、
「この段階でそんなこと言うのはまだ早過ぎるわね。初産なんだから、夜は長いわよ」
と醒めた顔をしてアニーが答えた。

そういえば。とわたしは思い出した。
ロンドン市内のNHSの病院では、約40%以上の妊婦がEpiduralを使って出産しているというデータがあるらしいが、わたしが出産したブライトンのRoyal Sussex County Hospitalでは、Epiduralを使用する妊婦のパーセンテージは一桁なのだそうで、どうも関係者はそのことを誇りに思っているらしいということを、NHSのマタニティー教室で講師を務めていたミッドワイフが言っていたのである。

その時のミッドワイフが言うところによれば、こうしたデータの数字にはEpiduralという麻酔が必ず麻酔専門医の手によって施されねばならないという背景があり、よって24時間いつでも分娩室に駆けつけてこれるように専門医師が待機していることが必須になるわけだが、ロンドンでは出産する妊婦の数が多いことから24時間いつでもというわけにはいかないそうで、「Epidural使うんだったら今のうちに予約してもらわないと、すぐ麻酔専門医を呼ぶというわけにはいきません」とミッドワイフが妊婦にあらかじめ確認するらしいのであり、のっけからそんなことを言われると、物凄く痛くなって使いたくなったときに使えなかったらどうしよう。と不安になってみんながEpiduralを予約してしまい、そのために使用率が上がってしまうというのである。

だが、ブライトンの病院なんかの場合は、どうせ一日に数名しか出産しないのだから、24時間いつでも麻酔専門医が来ることが可能なんだし、本当ににっちもさっちも行かなくなるまでは薬物に頼らずがんばってみなさい。無料で出産させてやってるんだから、いたずらにNHSの資金を無駄遣いしないでね。ということなんだろうが、マタニティー教室ではEpiduralは分娩初期に使用しなければならないと教わったような気もして、今のうちにやっておかないとどんどん赤子が下に降りてきて、こんなに分娩が進んだ段階ではもうヤクは使えません。なんてことになったりするんじゃなかろうか。

といった不安を覚えてしまうほど、この時点ですでにわたしの陣痛は本格化してきていた。陣痛。というやつは誰もが同じ痛みを体験するわけではなく、人によって痛くなる箇所や痛みのタイプおよび程度も異なるそうで、ひたすら下腹が痛かったという人もいれば、死ぬほど腰が痛かったという人もいる。わたしの場合は、痛みの中心は脚、というか腿の外側を左右からぎりぎり押し潰されているような感覚があり、このまま潰されたら下半身が骨盤ごと粉砕してしまうのではないかと思うぐらいの痛みがあった。

この時点でわたしがさかんに思い出していたのは、塚本晋也の「鉄男」という映画だ。同作中には、田口トモロヲが女性とセクシュアル・インターコース、つまり性的挿入を行っていたところ、女性の体内でトモロヲの性器がドリル化してしまい、猛スピードで回転して内側から女性の肉体を粉砕してしまうというシーンがあり、これまで観た映画のなかで最も恐かったシーンは何か。と訊かれたら、わたしは迷わずあのシーンを挙げさせていただこうと思っているほど、恐ろしい。女にとって、あれほど生理的にブルブルしてしまうヴィジュアルはないだろう。

わたしの陣痛は内側からドリルでバリバリ粉砕されるような感じのものではなかったが、巨大な鉄のペンチで骨盤を両側から締め付けられるような痛みで、生きながらにして下半身が崩壊するような感覚。という点ではまさにあの映画と同じだった。

産みの苦しみ。などという言葉があるが、わたしに言わせれば、あれは、産みの崩壊。である。あの痛みは、子宮およびそれを囲んでいる骨+肉+皮膚が、潰れ、砕け、一気に崩れ落ちてしてしまうような感覚であり、やはり何がしかの新たなものが誕生する前には、崩壊が起こる。というのが世の真理であったのだ。打ち壊せ、DESTROOOOOOOOY。
などと、この期に及んでもなぜかパンクな心持になりながら、わたしは体の奥から突き上げてくる怒濤のような声を抑えられなくなって、ああああああああああああ、と吠えた。

「ちょっと、その声!?」
わたしのおめきを聞いて動揺したアニーが、急いで手にゴム手袋をはめた。
「どのくらい子宮口が開いてるか見てみますから」
と、わたしの下半身に手を突っ込んだアニーは、
「もう9㎝まで開いてる。最初のお産にしては早いわね」
と言って、呑気に窓辺に腰掛けて新聞を読んでいた連合いのほうを見ている。
分娩室に案内された直後に子宮口の開きをチェックしてもらったとき、彼女は
「まだ2㎝しか開いてない。まだまだこれからね」
と鼻で笑っていたので、わたしの子宮口は二時間半で7㎝開いたことになる。

出産時、日本語でいうところの「いきみ」、英語でいうところの「プッシュ」が始まるのは、通常、子宮口が10㎝開いてからであり、そこまで到達しないうちに力み始めると様々の問題が生じるらしいのだが、なぜかアニーは、
「プッシュしたい?」
とわたしに訊く。
「できれば、したいという感じになってきてます」
わたしが答えるとアニーが言った。
「速いスピードでお産が進んでいるから、もう勢いにのって出しちゃいましょう。プッシュしていいわよ」

ほんまかいな。
と一瞬思ったが、相手はプロである。指示に従い、わたしはプッシュしよう。この堅気になったヒッピー女に命を預けよう。と決意して、アニーに下半身を固定され、いよいよ力み体勢に入った瞬間のことだった。
さきほどから、ひゃあああああ、わああああああん、うおおおおおおうううん、とせつなげな声をあげていた隣室の妊婦が、あられもない内容の絶叫をお始めになられたのである。

「STOOL、STOOOOLをををっ、わたしは出すかもしれません。あああ、ああああああああ、STOOOOOOOOOOL」
で、いきなりその叫びは始まった。
「それでいい。その感覚なのよ、子を産むというのは」
と、妊婦に言い聞かせているらしいミッドワイフの大声も聞こえてくる。

「だって、STOOLですよ。STOOLなんです、これは本物の。こんなところでわたしは出せないっ、STOOOOOOLなんてええええ」
「いいのよ。それでいいの。よくやってるわ。プッシュをやめないで」
「あああああ、でも、でもこれはSTOOOOOOOOOL、わたしの、STOOOOOOOOL」
みたいなラウドな会話の一部始終が、隣室から聞こえてくるのである。

さすがNHSの病院。安普請。という事情もあるが、あれは英国にしては異常なほど気温の上がった8月の夜であったので、経費削減のためにエアコンをつけてないのか、それともつけているんだけれども例によって打ち壊れていて利かないのか、分娩病棟の暑苦しいことといったらこの上なく、各レイバー・スイートの扉は開けっ放し。という状態で我々妊婦は出産に挑んでいたのである。

足置き台にがしっと両足を固定され、これからまさにいきみの本番に入ろうとするわたしにとり、このような妊婦とミッドワイフのやりとりが隣室から聞こえて来るのは辛い。
「ト、トイレットに行かせてくださいいいいいい。だってえええ、だってSTOOOOOOOOLがああ、STOOLが出るうううううう」
「だからそれはSTOOLじゃないの、ベイビーの頭なの」
などという会話を聞きながら平静に力んだりできる人がいたらわたしはお目にかかりたい。
壁のこちら側で自分もがんばらねばならないのはわかっているのだが、
「笑ってないで真剣にやれ」
と連合いに叱られ、
「そんな腑抜けたプッシュじゃ、赤ん坊どころか、蟻の一匹も産めやしないわよ」
とアニーに怒られても、プッシュどころか、まっすぐ仰向けになっていることさえ至難の業になってきた。

笑いをかみ殺している間にも鉄のペンチで下半身がぎりぎり締め上げられるし、あはっ、ぐうっ、ごっ、ふははへっ、あああほっ、ぐうふぇ、などという、もうさっぱりわけのわからない声を発しながら、わたしは分娩台で身悶えしていた。これじゃあ“産みの崩壊”どころか、わたしの生命そのものがついに崩壊を遂げそうである。陣痛だけでも死にそうなのに、笑わせるな、人を。

が、幸運なことに、その笑いと陣痛が渾然一体となった地獄のような苦しみはそれほど長くは続かなかった。
「あああああああ、POOがあああ、POOが出ます。POOOOOO。POOOOOOOOOOOをしに行かせてくださいいいいい」
「うわああああああああああああ、ああああうううおおおおおん。もうだめ。もうだめだああ。SHITがあ。SHITが出てくるうう。わたしのSHITがあああああああ」
と、先方がSTOOL→POO→SHITという具合に、日本語で展開させていただくならば大便→うんこ→糞といった調子で排泄物を意味する単語の三段活用を行いつつ徐々に言葉の品格を落として行かれるうち、いつの間にやらこちらもレイバー・ワールドにトリップしていたようだ。
「出るうううううううううう、うううううう、出てきたあああああっ、FU**ING SHIIIIIIIIIIIIIIIIT」
とくだんの妊婦が排泄を意味する単語をFワードで修飾して絶叫す頃には、わたしも
「あのビッチを黙らせろ」
と分娩台の上で叫び返していたらしい。

この段階になるとわたしは日本語でわけのわからないことをわめき散らすのではないかと思っていたが、後で連合いに訊いてみたところ、全部英語でわめいていたようだ。
それゆえ「お前が産め」だの「役立たず」だのいう言葉をすべて連合いに理解されてしまったわけであり、裏を返せばレイバー・ワールドにトリップしていても、罵倒という行為は相手にわかる言語でしなければ意味がないということを忘れなかったのだろう。

しかしながら、出産に際してこのように言葉が汚くなったり、攻撃的になって付き添いの人を罵倒したりしてしまうのは何もわたしや隣室の妊婦だけの話ではなく、NHSのマタニティー教室でも、そのような様態はレイバー・トリップの典型的な特徴のひとつであると教わった。
特に、上品な女性や、おとなしげな女性に限って、いきなりFワードを連発し始めることが多いそうで、普段そういう言葉は使ったこともないような妊婦の口から“FUCKING”が出てくると子宮口の全開が近い。という指標としてもミッドワイフたちは使っているらしい。

むかし、日本の産院で出産したことのある友人が、分娩室で思い切りわめいたら助産婦のおばさんに「我慢しなさい。あなたよりずっと若い子だって静かに産んでいるのに、恥ずかしくないの」と諌められたと言っていたが、英国はまったく逆のことが推奨される。わめき声だろうが罵り言葉だろうが恨み言だろうが、何でもいいからとにかく出せ。我慢などするな。下半身のブツと一緒に何もかも出してしまえ。Let it all go。とマタニティー教室でも教わった。

「出しなさい、そのPOOを。もうプッシュして全部出してしまいなさい」
と、隣室のミッドワイフも大声で妊婦に言って聞かせており、
「んがあああああああああああああ、んぎゃあああああああああ(注・赤ん坊の泣き声ではない。母の鳴き声である)」
「出てきたわ、見えるわよ」
「んぐわあああああああああ、んうごおおおおおおおお」
「ほら、出てきた。出てきたわ、女の子よ!」
などというドラマが壁越しに聞こえてくるので、そうか、隣室の排泄物はフィメールであったか。と思っていると、アニーが
「隣は終わったみたいね。こっちも行くわよ、さあプッシュして」
と言うので、わたしも歯を食いしばって頑張っていると、
「ちょっと待って。プッシュするのやめてちょうだい」
などと、アニーが唐突にのたまう。

人の下半身に手を入れて何かごそごそやってるアニーのほうに目をやれば、彼女は
「駄目。もうプッシュしちゃ駄目。まだ子宮頸部がこんなところにある。急に子宮口が開かなくなってしまったのかしら。おかしいわ」
と不審そうな顔をして首をひねりつつ
「ちょっと、とりあえずプッシュするのはストップして。まだ駄目だから」
などと勝手なことを言う。
だが、そんなことを言われても、一度プッシュし始めた妊婦の下半身は止まらないのであり、これはもう、理性とか気合とかで止められる衝動ではない。なにしろこちらはすでにケダモノと化していて、怒濤のような“押し出さねばならない衝動”が肉体の一番深いところから沸いてくるのだ。

ちょっと想像しにくい人々には、十日ぐらい便秘をした後にようやくブツが出てきそうになり、トイレットで必死でがんばって半出の状態になったところでビッビー、ブッブーと電話が鳴り始めた状況。それの十倍ぐらいの激烈な辛さ。と考えていただけるといいだろう。
やめろっと言われてもっ、ずらちゃらららつんらちゃーら、今では遅すぎたっ、ずらちゃらららつんらちゃーら、と、むかし西城秀樹も歌っていたが、まさにその通りであり、今さらそんなことを言われても無理なのである。
「止まりません。もう止めるなんてできるわけがないでしょううっ」
と、物凄まじい形相でわたしはアニーに抗議していたらしい。
「だってあなた、このままプッシュし続けたら、赤ん坊が危険よ。それにあなただって、裂けちゃうわ」
「でもプッシュしろって言ったのは、あんたじゃねえかよー。何とかしろよー、何とかして止められるようにしてくれえーっ。ドラッグう、ドラッグをくれ、ドラッグでこの衝動を止めてくれえええ」
みたいなことをわたしは涙ながらに訴えていたそうだが、その後で急に冷静な口調になって
「わたしはEpiduralを要求する。即急にわたしが当該麻酔を使用できるよう、手配していただけますね。お願いいたします」
と、しごく嫌味な感じで言っていたらしい。
本気でぶち切れると妙に言葉遣いが丁寧になってしまう癖が、こんな時にまで出てしまったのだろう。

「そんなこと言ったって、あなた、この段階ではもうEpiduralは使えないわよ」
「だから当方は早い段階での使用を提案させていただいたのです。それを却下したのもあなただ。あの段階では時期尚早であったという判断はあくまでもあなたの判断であり、当方のそれではございませんでした。よって、わたしはEpiduralを要求する」
「だけど、Epiduralを使うには、お産が進み過ぎているの」
アニーは困りきった様子で、また、自分の判断でわたしにプッシュさせたことに多少のうしろめたさも感じているような調子でぼやいていたらしいが、
「わたしはEpiduralを要求する、わたしはEpiduralを要求する、わたしはEpiduuralを要求するものである」
を据わりきった目で何度も繰り返すわたしに根負けして
「わかったわ。あなたの場合は、Epiduralがないとどうしてもプッシュするのを止めることができない、ということで特別に使えるようにしてもらいましょう」
か何か言いながらそそくさと部屋から出て行った。当番のミッドワイフたちの詰め所にいる責任者と相談しに行ったらしい。

しばらくすると
「使えるわよ、許可が出たわ。今、麻酔専門医に連絡してもらってるから。もうちょっとの辛抱よ」
という朗報を持ってアニーが戻ってきた。
その後麻酔専門医がかけつけて来て点滴のような様態のセッティングをし、わたしの背中にチューブを突っ込んでEpiduralを注入するまでは15分程度だったそうだが、わたしにはそれが二時間にも感じられた。
肉体が猛烈に排出したがっているものを抑える。それはほとんどミッション・インポッシブルである。調子のいいミッドワイフのおかげでそのような難題に直面させられ、全身汗びっしょりになってぶるぶる震えながら薄目を開けてみれば、窓辺に腰掛けた連合いがバナナの皮を剥いてもぐもぐ食っているのが見えた。
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by mikako0607jp | 2007-08-14 07:33 | 女が野獣と化すとき。

女が野獣と化すとき。それはレイバー①

それは真夜中の破水ではじまった。
呑気にテレビでティーンエイジ・ペアレンツのドキュメンタリーか何か見ながら、うちの界隈にもごろごろいるよなー、こういうお子様ペアレンツたちが。ジャージ卒業したらいきなり子育てだもんな、こいつら。うわ、こっちはおもむろに下半身露わにして産んでる産んでる、しかし17歳で出産に立ち会う青年ってのもなんだよなー、ヘソの緒切りたいですか、なんて訊かれたって本人今にもピュークしそうじゃん。とか何とか思いつつ、ほへーっとベッドに寝転んでいたところ、自分の腹のウォーターまでブレイクしやがったのである。

陣痛の有無にかかわらず、破水したときや、'おしるし'にしては鮮明過ぎるカラーの血が大量に出たときには分娩病棟の24時間直通ラインにすぐ電話してください。と定期健診や、NHS(National Health Service。英国政府提供の医療制度)のマタニティー教室で繰り返し言われていたので、速攻で病院に電話を入れると、すぐチェックが必要なので出向いて来いという。っつったって時間は夜中の12時だし、連合いは留守なのでタクシー呼ばなきゃ。ってんでキャブ会社に電話すると「行き先はどちらですか」と訊かれ、「Royal Sussex County Hospitalの分娩病棟」と答えれば、「ビニールシートとバケツはお持ちですか?」と訊いてくる。マタニティー教室で聞いていたとおりの展開だ。キャブ内で破水すると座席がびしょびしょになる&羊水は独特の臭いがする。というので、ブライトン&ホーブ市内のキャブ会社は、ビニールシート持参でないと分娩病棟行きの妊婦は乗せてくれないという。バケツは嘔吐したときのためらしい。

ほんなこと言ったって予定日までまだ三週間もあることだし、ビニールシートなんて用意してなかったじゃん。などと躊躇している間にも羊水は下半身を滝の如くに流れており、わたしはとりあえず「イエス」とキャブ会社の姉ちゃんに答え、“子育て必需品No.1”として知人から買い与えられていたチェンジング・マット(日本の市場に流通しているのかどうかは未確認だが、赤ん坊のオムツ替え用ビニール製マットレス)をビニールシートの代わりに尻の下の敷き、連合いの友人が子連れでブライトン・ビーチに遊びに来たときに忘れていったバケツを持参してキャブに乗り込むことにした。

そういう按配で、ピンクのいちごプリントの女児水遊び用バケツを右手に下げ、左の小脇にはくまのプーさんのイラストつきチェンジング・マットを抱えているという、パンクあがりの中年女にしてはやけにファンシーなビジュアルになって病院に到着したわたしであったが、その一時間後には再びキャブに乗って帰宅していた。「先に破水した場合には24時間以内に陣痛が起こる可能性が高いのでそれを待ち、起こらない場合には感染の恐れもあるので陣痛を誘導しましょう」なんてこたあ電話口でも伝えられるだろうからいちいち病院まで呼びつけるなよ、こんな真夜中に。キャブ代だって馬鹿にならないんだし。くまのプーさんがじゅくじゅくになったじゃねえか。だらあ。みたいな顔をして話を聞いていると生真面目そうな若いミッドワイフが「病院に来ていただいたのは本当に破水かどうか、感染を起こしていないかどうかチェックするためです。尿と羊水を勘違いする人もけっこういるんですよ」と言う。

ほんなこと言ったって、そんなもん両者は出てくるとこだって違うんだし、いくら臨月で下半身が緩み放題になっているとはいえ、前者と後者を勘違いする奴なんかいるわけねえだろう。いくらなんでも。と、さらに反抗的な眼つきになってミッドワイフを薮睨みしていたわたしだったが、後から聞いた話によれば本当にこれらのリキッドを混同する妊婦は少なくないようだ。

そういうわけでわたしはいったん家に戻り、なんとなく眠れぬ夜を過ごしたのだったが、わたしの無駄足はそれだけで終わったわけではなかった。翌朝には夥しい量の出血が始まり、再び分娩病棟の24時間直通ラインに電話を入れたところ、またもやすぐに出向いて来いと言われたのである。今度は帰宅していた連合いの車に乗り込み、ホスピタル・バッグ(入院用の荷物の入ったバッグ)持参で病院に直行したのであったが、「ブレイクしたウォーターに混じって出血してるから量が多いように見えるだけよ。鮮血といってもピンクがかってるから大丈夫」などとミッドワイフに軽くあしらわれ、再び帰宅して陣痛が始まるのを待つよう指示された。

「行ったり来たり何なんだよー」とすっかり気持ちがグレてしまったわたしは、帰宅途上で「どっちみち明日の朝一番で陣痛を誘発するってんだったらもう産まれたも同然だし、そんならもう何しても構わないってことだよね。あああ。わたしは今、思い切り自分の肉体を汚したい」と連合いをマクドナルドに買出しに行かせ、ブライトン・ビーチの脇の道路に止めた車の中でビッグマックを貪り食ったのであった。

「職場のRがよー、立会いする男も着替えやタオルを入れたホスピタル・バッグを持って行ったほうがいいって言ってた」
「なんで?」
「分娩室で嫁さんに吐きかけられたらしい。一人目のときも二人目のときも」
と言いながら連合いは、二人分のフライドポテトをたいらげてもまだ物欲しそうな目をしているわたしを不安げな面持ちで眺めている。
「ふうん。そういや、海パン持ってったほうがいいんじゃない。本当にわたしと一緒に水中出産用プールに入りたいって思ってるんだったら」
「いや、職場のMが、プールに入るのは考えたほうがいいんじゃないかって言ってた」
「なんで?」
「いざ水面に浮いてる様々のものを見ると、やっぱちょっと気持ちがひるむって」

ざっぱーん。
と音をたててブライトン・ビーチに大波が寄せてくる。
サーフィン日和の大しけの海だ。っつってもブライトンでサーフィンしてるやつなんかはさすがにいないけど。空はどこまでも白々と醒めきった曇天である。いかにもこの国らしい、夏なんだか何なんだかさっぱりわからない季節感もへったくれもない薄暗さ。
ふっと、二十年前に初めて英国に渡ってきたとき、日本を出る前日に景気づけの意味で見た映画が「さらば青春の光」だったことを思い出した。
ざっぱーん。ざっぱーん。ざっぱーん。
と絶え間なく押し寄せる波を眺めながらしばしメランコリックな思索に耽っていると、なぜかわたしの体内でも、ざっぱーん。と力強くウェーブが打ち寄せ始めたのがわかった。
「陣痛が、始まったみたい」
ストロベリー・シェイクを最後の一滴まで飲み干してから、わたしは連合いにそう宣言した。

早々と病院に行ってもまた帰れと言われるのは目に見えているので、出来るだけ自宅で陣痛を進行させることにした。NHSのマタニティー教室では、「陣痛がきたら、椅子の背か何かにつかまって尻を突き出し、臀部をぐりぐり回したり横にふりふりしたりしなさい。そうすることによって赤ん坊がいい位置にどんどん嵌りこんできます」と指導され、教室内では臨月間近の妊婦たちが一斉に椅子の背につかまってぐりぐりぐりぐり自分の尻を回し始めるという、連合いが「シュールレアリズムだ・・・」を連発するような光景が展開されていたわけだが、人間痛みに溺れているときにはどんなシュールな藁でも掴みたくなるものであり、わたしも気がついたら自宅のアイロン台につかまって約6時間ひたすら尻をぐりぐりしていた。

病院の説明書に書かれていた通り、陣痛の間隔が5分以下になり、50秒以上続くようになってから病院に電話を入れると、今度こそホスピタル・バッグを持って来るように言われた。この段階になって「病院に来るときは、大きめのTシャツかシャツを着てその上にバスローブを羽織っていらっしゃい。まともな服なんか着て来る必要はありません」とマタニティー教室で教えている理由がわかった。服なんか着ている余裕があるうちは自宅で待機してなさい。ちゃっちゃっとバスローブとパンツを脱いでTシャツ一枚になったらそのままブツを押し出せる、そういう段階になってから病院に来ればいいの。ということなのであり、これこそが質実剛健のNHS出産のスピリットなのである。

そんなこんなで分娩病棟に到着し、「あなたの分娩室はこちらです」と案内されていると、いきなり水中出産用プールのある奥の部屋から全裸の女性が出て来た。一糸まとわぬ姿のきれいな金髪のお嬢さんが、完全にイッてる目つきでこちらに向かって歩いてくるのである。その後ろからあたふたと彼女を追いかけてくるのは、タオルでくるんだ新生児を抱いたミッドワイフと、怯えた目をしたパートナーらしき男性だ。

さすがにこれには連合いもわたしも度肝をぬかれ、急いで下を向いたのであったが、先方はこちらの存在などまるで気にしちゃいない。平素からヌーディスト・キャンプか何かにお住まいの方ですか?と訝りたくなるような堂々たる態度で、陰毛も何も丸出しにして廊下を歩いてくる。

出産時、女は‘レイバー・ワールド’にトリップする。
という話を何度か聞いたことがあったが、あのときの彼女の目は、完全にマジカル・ミステリー・ワールドにとんでいた。そう。ルールとか恥とかモラルとか、そういう人間世界の枠組みとはまったく無縁にしてファック・オフの無法地帯。ケダモノ・ワールドへ。

だいたいにおいて「女子大生、野獣のおめき」だの「午後の人妻、野獣の炬燵ばた」だのといった性欲促進系の映像のタイトルはすべてドリーマーな男性諸君によって付けられたものであり、女は誰でも、自分が性交ぐらいで我を失ったりしないことを知っている。よしんばケダモノ化しているように見えることがあったとしても、それは性交中に今ひとつこちら側の盛り上がりに欠けているので「仕方ないから自分で自分を盛り上げましょう」的な単体における努力、または文字通りの“ひとりよがり”だったり、「さっさと終わって欲しいんだけどそう言うのも何だから、よがってるふりしてとっとと達してもらいましょう」的な、細やかな女の思いやりだったりするのであり、いずれにせよ、とどのつまりが演技なのである。

だが、レイバーだけは違う。こればかりは本当に女をもう一つの世界に連れてゆく。断言させていただくが、女が人間としての自らの実在を完全にうち捨てて野獣化するのは、後にも先にも子を産む時だけである。つくる時ではない。

つまり、Labour Wardというのは言い方を変えればAnimal Wardのことだったのであり、今回のお産を通じてわたしもこの野獣病棟の何たるかをとことんと学習させていただいた。前述の金髪全裸美女などは、ケダモノ・ワールドにトリップした女たちのほんの一例に過ぎなかったのである。

そんなこんなで連合いと二人、“レイバー・スイート”と呼ばれる分娩室に案内され、担当のミッドワイフが来るのを待った。

英国での出産となると、ロンドンあたりのジャパニーズ・コミュニティーでは“地獄の沙汰も金次第”というのが常識になっており、NHSを利用して子供を産めばタダだけど最低最悪の医療サービスしか受けられず、プライベートの医療機関を利用すれば日本並みかそれ以上の優秀なサービスが受けられるけれども100万円単位で金がかかる。みたいな話が定説化しているので、NHSの病院の“レイバー・スイート”などと言うと、英国在住の日本人の方々からは、“スイート”だって、ぷぷぷ。といった反応が返って来るのは目に見えているが、ところがこれ、ブライトンのRoyal Sussex County Hospitalの分娩室は捨てたものでもない。

同病院では、分娩病棟じたいが13階に位置しており、分娩室の壁の上半分は全部窓になっているので、イメージとしてはこう、オフィスビルの最上階にある中途半端にガラス張りになった社員食堂。みたいな感じだ。で、その窓からブライトン・ビーチが一望にできる。よって日が暮れると、社員食堂が突如としてリゾート地のホテルの最上階のバーとしてリボーンしたような雰囲気になり、分娩台の上からビューティフルな夜景が堪能できるのであり、あの眺めだけでも“スイート”と呼んでいいんじゃないかな、とわたしなんかは思っているのだが、まあ当然NHSであるからして部屋の中の設備、内装などはヴェリー・ベイシックであることは違いなく、流行のスカンジナビア・モダンって感じのインテリアの部屋で出産したいの。とか、シーツとかカーテンとかは全部リバティで売ってるテキスタイルじゃないと英国で出産したって気にならないの。とか言うような方々にとっては、ぷぷぷ、な部屋ではあることには間違いない。

んが、この分娩室には一応テレビも設置してあって、というか、イメージとしては、歯医者が患者の口の中を見るための照明器具。のようなものが分娩台上部からぶら下がっており、それにA4サイズの電話付き液晶スクリーンがついていて、その設備を利用して外部に電話をかけたり、テレビを観たり、ゲームをしたりできる仕組みになっている。なんでもW杯の開催期間中には、この分娩室のテレビでイングランド代表戦を観ながら「今のはオフサイドじゃねえだろうがよー」などと激昂しつつ子供をプッシュ・アウトしたツワモノもいたらしい。

ってなわけで、わたしもその珍しげなTV&電話設備をいじくりつつ「なんだこのテレビ有料なのか。ふん。何でもかんでも金、金、金って」とぶーたれてみたり、「ちょっと待てよ、有料ってことはいかがわしい映像もあるってこと?分娩台でポルノ観賞ってか。いいねー」などと勝手に想像をふくらませて一人でウケたりしながら、陣痛が襲ってくると急いで分娩台につかまり、頭を台の上に突っ伏してぐりぐりぐりぐり尻を回す。というようなことをひたすらリピートしていると、
「お待たせしました」
と頭上で誰かの声がした。
顔を上げてみれば、年の頃でいえば50歳前後の長身の女性が青いミッドワイフ服を着て立っている。
「私が担当のミッドワイフです。アニーと申します」
田丸美寿々みたいなヘアスタイルで一見すると品のよろしい奥様風のミッドワイフだ。が、なんというかこう、本質的なジェリー・ホールは隠しきれない、といった風貌であり、長年の酒と煙草とドープでやけちゃったのよ、みたいなしゃがれ声も、上品な奥様にしてはやけに据わりきっているその目つきも、若い時はグルーピー、ちょっと歳取ったらヒッピー、ほんでファッションだけでやめときゃいいのにいつの間にか本当のフーテンになっちゃって、ふらふらブライトンに流れ着いてみたらもういい歳でしょ、年金のこともあるし、しょうがないからアタシ堅気になったの。という遍歴が顔に書いてあるようなおばはんだ。このタイプのおばはんはブライトンには少なくない。
いける。
と直感的にわたしは思った。

NHSのマタニティー教室で配布されたプリントには「出産は、妊婦、立会人、ミッドワイフが三位一体となって行う作業です」と書かれてあった。いったい誰が神で、誰が子で、誰が聖霊なのかは不明だが、三位一体というからには「アタックNo.1」の柳沢三姉妹のように、2本×3人の手(産み手の場合は2本の脚)を最大限に活かしながら、三者が一体化して、あんな穴からあんなものを出すという大変な難題にアターックせねばならぬということである。

日本でも最近は出産の立会いをする男性が増えているようだが、英国では、出産には立会人がいるのが普通であり、孤独に出産する妊婦はよほどの訳ありと見なされてしまう。で、伝統的にこの出産立会いはパートナーの男性の役割だったわけだが、男性に立会いをさせると肝心な時に余計なことを口走って妊婦のやる気を損なう、下半身からいろんなものが出て来たときに妊婦を不安に(または激怒)させるような表情をする、嘔吐・貧血などでふらふらして役に立たないどころか妊婦より手がかかる場合もある、等の不都合も多いため、最近では母親や姉妹、女友達などの、出産経験のある女性を立会人にする妊婦が増えてきているらしい。また、“DOULA”と呼ばれるプロの出産立会人を雇う妊婦もいるようだ。

そのようにして立会人は自分で選択できるものの、担当のミッドワイフだけは指名することは出来ない。その時の病棟の事情で、先様が勝手に誰か派遣してくるわけである。だが、どうしても自分と合わない感じのミッドワイフをあてがわれた場合には黙って我慢する必要はなく、別のミッドワイフに変えてもらうことが可能だ。とマタニティー教室でも教わったが、それにしたってまたその別のミッドワイフがどうもしっくり来ない、ということだってあるし、他のミッドワイフが全員出払っていて、取り替えようにも人材がいない、という場合だってあるだろう。つまり、出産時にどんなミッドワイフをあてがわれるかは全くの時の運なのであり、この人ならいける。と直感的に思えるような人物が担当につくということは、これからたった一人で未知のケダモノ界へ旅立とうという妊婦にとってはまことに心強いことだと思った。

だが、
「あの、実は水中出産を希望してるんですが」
と言うと、アニーは、ふふん、と鼻で笑うような表情をして
「あなたは先に破水してるから水中出産できないわよ。感染の可能性があるから」
と冷たく言い放つ。そして
「出産なんて、バース・プラン通りに行かないことが多いのよ」
あんたばかじゃないの。と言いたげな目つきで分娩台にしがみついて尻をぐりぐりしているわたしを一瞥してから、アニーは流しでじゃーじゃー手を洗い始めた。

バース・プランというのは、妊婦が作成する分娩についての要望書のようなものである。例えば、日本の場合、分娩時の妊婦は水揚げされたマグロのように分娩台に横たわるだけで後は医師にお任せコース、という受動的な出産がノーマルだったようだが、最近では欧米社会を見習って妊婦がもっと能動的に出産メソッドについて学習し、自分はこういう姿勢で、こういう風にして子供を産みたいのであり、産まれた子供はこのようにして私に渡して欲しいと思っており、また、産後の胎盤はこのようにして出したいのである。といったバース・プランを作成したいという女性が増えているという。

また、日本では全く陣痛の痛みを和らげる措置を講じない有痛分娩が普通だが、英国では分娩時に何らかの鎮痛措置を講じるのが普通であるため(とはいえ、最近は日本式のナチュラル・バースを希望する人も増えているという)、第一に希望する鎮痛措置はこれで、第二希望はこれ、といった詳細な鎮痛メソッド、鎮痛に使用する薬品に関する希望をバース・プランに記すことができ、自分で自分の出産を完全にコントロールすることができるようになっている。

んが、これはまたこれで全面的に素晴らしいとは言えない部分があるらしいのであり、定期健診を受けたミッドワイフの数名(わたしは二度以上同じミッドワイフから定期健診を受けたことがない。毎回違う人だった。英国在住の日本人の奥様方はこの点を「よくない」と指摘されるようだが、相手はNHSである。民間医院のような一対一のサービスを期待するほうが無茶というものだ。しかし、わたしは逆に毎回違う人に会えるほうが、いろんなことを言う人がいて面白いと思った。要は自分が混乱しなきゃいいのである)が言うことには、英国にはバース・プランに拘泥する女性が多く、一生に数回のことであるからには全てを自分のたてたプランの通りにやり遂げて、出産経験を素晴らしいものにしたい、と思い過ぎる余り、いったい自分にとって素晴らしい経験にするのが大事なのか、それとも無事に赤ん坊を産むことが大事なのかということが本末転倒してしまい、「あなたがいくらそれを望んでもこういう状態になってしまったからにはプラン通りにはできません」などと言われると、きいいっ。となってしまう人が少なくないらしいのである。

んで、まあ、わたしという人間は、ちょっとぐらい、きいいっ。となったほうがいいんじゃないかと自分でも思うぐらいに、行き当たりばったりのいい加減なタイプであるからして、プランをたてるとかそれに沿って何かを成し遂げ素晴らしい体験をするとかいう行為・行動が死にたくなるほど苦手であり、「そんなもん、どんな方法が自分に効き目があるかもよくわかんないし、わかんないもんはもう全部Go with the flowですよ、Go with the flow」「それならいっそそれがいいと思うわよー」みたいな会話を数人のミッドワイフと交わしていたのであり、よって最初からバース・プランなど書く気もなかった。

「わたし、バース・プランは準備しませんでした」
ミッドワイフのアニーに言うと、
「あらそう。それならそれが一番いいのよ」
と彼女も他のミッドワイフと同じことを言った。すると闇雲に連合いが
「妻はジャパニーズなんですけどね、日本では出産する時、痛み止めなんか全く使わないらしいですよ」
と脇から口を挟んでくる。
「ふーん。じゃあ私たちもジャパニーズ風にいきましょうか」
それでなくともSのかほりがそこはかとなく漂うアニーの瞳が心なしかじんわりと潤んだ。
またこいつは余計なことを言いやがって。出産を終えたら次は別れ話だな。と連合いを睨みつけながら、わたしは渾身の力を込めてぶんぶん首を横に振っていたのであった。
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by mikako0607jp | 2007-08-14 07:30 | 女が野獣と化すとき。